楽器の音域と校訂譜と...

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先日、レッスンをしていて思ったことを備忘録代わりに綴ってみることにする。

本番で弾くとのことで、J.S.バッハのとある世俗カンタータのレッスンをした。

(尚、このカンタータについての一次資料の裏付けを自分ではとっていないので、詳説を避けて「とある」と書くにとどめておきます...)

このカンタータ、彼女が持ってくるまですっかり忘れていたが、私が学生時代にはまだNBA(新バッハ全集)からは未出版だったカンタータだ。それゆえに当時「今はこれしか入手不可なのかな」という版を入手したのだった。いずれNBAで出たらそれを入手しようと思っていたのに、この作品とは御縁がなく、すっかりそのことを忘れていたのだった。

さて、現在ではNBAからも出されており、生徒は私が持っている版(以下 某版)とNBAと両方を持ってきた。NBAは歌手から渡され、彼女は色々と音源を聴いてみたところNBAと違う音を皆弾いていて、某版での演奏が多いとのことで、そちらを見ている様子である。なるほど、所々音型が違うのね。

自分が演奏に臨む場合、一次資料あるいはそれに近いものをなるべく見てみるようにしている。(非常に信用出来る現代出版譜がある時は怠けさせていただくことも多々あるのだが...)ありがたいことに、今は結構ネットで公開されているので、自宅に居てそれが叶う。余談だが、誰でもそれが出来るのだから、楽譜関係の論文に問われるレベルは大分上がっているのだろうな、と思う。もっとも演奏を通してでしかモノが言えない私からすると、言語化すること自体が賞賛に値するのですが。

話を戻すが、一次資料を確認すると現代出版譜にする際に時々何かが生じたことを確認できることもある。大抵は、校訂報告を見るときちんとそれについて書いてあるのだけれども、校訂譜を他で再版した場合はそれが落ちていることも....。一方、一次資料を簡単に見ることが出来ない場合で、現代出版譜で何らかの「?」がつく場合がある。且つ、校訂報告を見ることが出来ない時は、何が生じたかを推測していくようにしている。そうして、それなりにそのような校訂をなされた背景や意味にたどり着くことが出来れば、自分がそれを信用するか、しないか、どう弾くかが導き出されるからである。

それを踏まえて、二つの出版譜の違いについて、考察しながらレッスンをしました。

ところで、面白いな、と思ったのが、相違音型の一箇所が、某版では明らかにバッハのチェンバロ独奏で使用されている音域を超えているということ。オブリガートチェンバロと歌のカンタータ楽章において、さらに高音域において見られたので、見逃さない事項だ。とはいえ、チェンバロに存在しない音域であれば、すぐにおかしいと気づけるのだが、「バッハの使用音域において」なので、冷静にならないと見逃しそうになる事項である。同じ旋律音型が何度も、音の高さを変えながら出てくるのだけれども、確かにそのパターンで考えれば、某版のように書かれたであろう。だが、バッハの使用音域においては無い音なので、NBAが元とした資料は書き損じではなくて、作曲家の工夫あるいは苦肉の策のアイデアだと言えるだろう。

勿論、ごちゃごちゃ言わないで、素直に作曲家が書いていた方を弾けば良いし、そう弾きますけれど、作曲家はどちらを本当は書きたかったのだろうか、とも思うのだ。一次資料あるいはそれに近いものに基づいて演奏する古楽器奏者、資料的オーセンティックHIPを貫く場合は、何も問題はないのだろうけれども、真の意味でのオリジナルを追求する場合(作曲家の意図を徹底的に探って演奏する場合)には某版が採用した音型という選択肢もあり得るのだろうなぁと思ったのである。時々、校訂に対してモノを言いたくなる場合があるのだけれども、校訂にも色々な立場からの校訂がある、ということを忘れてはいけないなとも改めて思う。演奏もどんな視点の立場で作品に向き合って音にするか、多種多用である。校訂にも色々な立場からの校訂があるから、一次資料あるいはそれに近い資料の公開が意味を為してくるとも思う。そう考えると、資料がネットで公開されたから楽譜が売れなくなる、ということはおかしな話だとも思えてくる。