30 oktober 2009

奏者観点で... 日本音楽学会全国大会に行ってきました

10/24-25、日本音楽学会全国大会(於 阪大)に行って来た。
今回参加したのは、以下のもの。
・シンポジウム『第一次世界大戦と音楽史』
・研究発表『模範としての「演奏のスタイル」ーフレスコバルディのトッカータにおけるパラドックス』大岩みどり氏、
・研究発表『体系か概念か?19世紀「旋法」再考ー tonとmodeを手がかりに』安川智子氏
・研究発表『コプラ概念再考』平井真希子氏
・研究発表『19世紀フランスにおける単旋聖歌の復興運動と『単旋聖歌伴奏の理論と実践』』木内麻理子氏
・シンポジウム『メンデルスゾーンの「イタリア」ードイツ人音楽家のイタリア旅行体験を多角的に検証する」

 私の視点はあくまでも奏者観点であるので、ここで 各シンポジウムについて や 研究発表について の言及は避けるけれども、概して研究発表を聞く度に残念に思うことがある。それは、音楽作品が楽譜の形で残されていても実際に鳴り響く音楽として残されていないことである(これを嘆くのは仕方のないことではあるが)。19世紀末や20世紀に入ると作曲家自身の手による録音や、作曲家が関与した演奏録音が残されている場合があるけれども、鳴り響く音が残っていれば...と思うことがしばしばある。実際の音にする迄の音楽学的研究が必要な場合もあれば(コプラ概念などはまさにそのケース)、これは特に奏者観点の意見だけれども19世紀以降の読譜の習慣やその概念のままに研究を進めては非常に危うい場合もある。
 どの研究発表でそう思ったのか、ということではないが、今回感じたことは、現在「19世紀以降の」概念というように言われるものも、果たしていつからのものにそれが言えるのか?ということ。全ての19世紀以降の作曲家においてそれが通用していたのかが疑問だ。もしかしたら「19世紀以降」「18世紀以前」を奏者間で言っていても、それは小さなコミュニティ(=日本人だけ)でのことかもしれないし、もちろん主にバロックを演奏する者達が扱う音楽も16世紀、17世紀、18世紀、さらには各Centuryの前半後半、又、地域によって異なり、同じ概念では音楽を扱えない。音楽学研究が進むことは演奏実践において非常に重要であり待望していることであるけれども、時には演奏実践から研究を疑うことも、いや、今後はそんなことも必要になってくるのではないか、と考えた。堂々巡りのようだけれども...。
 そして、今言われている(いや「今言う」こと自体が何だか古い考え方の音楽観だなぁとさえも思うけれども)「19世紀以降の音楽観」というのは、実は20世紀に入ってからの音楽観であって、これももしかしたら第一次世界大戦を境目にしているのではないか? という極論も思い浮かんでしまった。
 もっともベストな研究の形というのは、研究者と実践者の双方で実験し検証していくことだろうけれども。芸術学の分野を超える必要もあるだろうなぁとさえ思う。
 あくまでも現在の日本のソルフェージュ教育が通用しない楽譜を日々読んで音にすることを考えているチェンバロ奏者の思うことにすぎないけれども(むろん全てのチェンバロ奏者がそうは思っていないであろうことも断っておきます)、素晴らしい研究発表を目の前にしても、そんな細かいところも気になってしまうのは職業病かもしれない。

 ところで、意外にも異分野(私にとってはEarly Music以外の音楽分野)の研究発表だとかシンポジウムが妙に刺激になることも面白い。様々な点で「考え直す」ということにあたっての参考になることが多い。勿論、方法を「変換」しなければならないのではあるが...。

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