音楽考: juli 2008アーカイブ

移調の謎

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J.S.バッハの作品に「BWV1030」の作品目録番号が割り当てられている作品がある。
一般に言う「h-moll(ロ短調)のフルート・ソナタ」のことだ。
この作品は皆様よく御存知だと思うけれども、オーボエ用の異稿譜というのがある。 こちらはg-moll(ト短調)。
蛇足だが、それは学生時代の試験の場ではあったが、私がチェンバロで最初にアンサンブルとして、 「聴いてもらう為に」演奏した作品だった。旋律楽器はバロック・オーボエ。 その後、モダン・オーボエとも弾くことがあったし、何かと縁深い曲でもある。
フルートとは、当然 h-moll、ヴォイス・フルートともh-moll、オーボエとはg-mollで弾く。
そして、リコーダーと共に演奏する時は、c-mollになる。

何故、調が各々異なるのか?

...という質問が時々あるのだけれども、それは、こういったアンサンブル曲の場合、 旋律楽器の特性(主に音域の問題)に合わせて、移調を行う(適切な調性を選択する)。
音域の問題と言っても、単に「この音が出るかどうか」という問題だけでなく、 演奏可能な音域であっても、特に管楽器は音域によって音色特色が異なるため、 その有効な音色音域を用いるために、適切な調を選択されることもある。
こういう言葉にすると難しいけれども、簡単に言えば
「より映える調性で演奏する」
というところに理由があると思う。
鍵盤楽器というのは、大多数が他の種類の楽器に比べて、 あまり演奏可能音域内での音域特性というのは無い。 面白い例があって、J.S.バッハはイタリアの協奏曲作品を鍵盤独奏に編曲したものが残っているのだけれども、 鍵盤なら音域に特に問題がある場合を除いて(チェンバロは意外と最高音は低い)、 移調する理由はあまり見当たらなさそうなのだけれども、何故か他の調を選択されている場合がある。
その理由の一つには、調性感の問題があるかもしれない。
厳密に言えば、楽器ごとに、その得意不得意とする調があって、 他の楽器に比べて、鍵盤楽器にその得意不得意の障壁は少ないにしても、 各々の調で表現される世界というのが各々にあると思う。
しかし、楽器全般的に、調性の特色は、ほぼ一貫したものであって、 そう考えると何故移調するのか? という疑問点が残ってくる。

ちなみに、ロマン派の時期になって、リスト等にもその作品は残るが、 管弦楽の為の作品(オペラ作品を含む)をピアノで演奏するパラフレーズ作品に、 移調されて書かれている例もある。ピアノは、オーケストラの全音域をカヴァー出来ると言われる程に、 音域が広いので、演奏可能音域等の問題は横たわっていない筈である。

ところで... 2006年の現時点において、私が最も複数の調で演奏する機会のある作品というのが、 このBWV1030のソナタなのだけれども、やはり鍵盤楽器にも物理的な調の得意不得意があるのではないかと、 やんわりと感ずるようになってきた。
正直なところ、鍵盤楽器においては、何調でも演奏可能だとは思う。 しかしながら、h-moll、g-moll、c-mollのうち、一番理にかなっているものは、 原調と思われるh-mollなのだ。理にかなっているつまり、指に無駄な動きがないのである。 これは物理的な結果論だけれども。
J.S.バッハは、皆様御存知の通り、鍵盤演奏にも長けていた音楽家である。
BWV1030のソナタが、フルートの為の調を選択していたとしても、 その調の中でオブリガート・チェンバロを書いて行くにあたって、 最も無駄のない音形が選択されているように思う。
無駄の生じる調で弾いても、鍵盤奏者にとって、99.9%何の問題も起こらないので、 あまり意識しないのかもしれない。

他の楽器の為の作品の鍵盤楽器作品用への移調は、 作曲家の楽器物理的見地からの特性を考慮して選択されているのかもしれない。

しかし...堂々めぐりなのだけれども、十二平均律を用い始める前の時代... 調性ごとの特色性への意識はとても強かったと考えられているのだが、 その見地から考えると疑問が多いに残る。
が、「平均律クラヴィーア作品」に書かれた落書き(?)から導き出されたリーマン調律では、
十二平均律の5度音程も出てくるような提示がされているけれども、我々が考察している程、 調特性への意識が高くはなかったのか...
あるいは...もっと柔軟で、ケース・バイ・ケースだったのかもしれない。

奏者としては、ケース・バイ・ケースで落ち着きたいのだが(笑)、
「そんないい加減な論」と言われそうだが、これは学術考察ではありませんので(笑)

☆ 議論を投げかける記事ではございませんので、あしからず。
(2007)


演奏において、楽譜と向き合う際、常に考えていることがある。音符と言語との関連性である。音符は、言葉と同じ「相手に物事を伝えるための一つの道具」であると思っているのだが、音符を言葉に置き換えることが出来るか否か以前に、音符同士の構成や並びは言語と非常に密接であると思う。音楽修辞学という学問分野が存在するが、もっと単純・低次元なところで、リズムや「語り口」を見てみれば音符と言語が密接な関係にあるのは一目瞭然だ。

解りやすいところで言うと、日本語が常に「子音+母音」の連続による「子音+母音+子音+母音+・・・・・・+子音+母音」であるのに対して、ヨーロッパの言語は必ずしも「子音+母音」の連続ではない。そのことに、ちょっと気をつけてみるだけでも、楽譜の読み方は変わる。又、楽譜を読んで行くと、前置詞に相当するような音符も随所に見られる。そんな部分を発見するだけで楽譜の読み方が変わり、必然的に奏でる音楽も変わる。

さて、こんな風に書き出すと、言語学を絡めたお話ですか?と言われそうだが、もっと簡単に「雰囲気」のお話...

ドイツの音楽とフランスの音楽、音楽の趣きが両者で異なるのは一目 一聴瞭然だが、楽譜を見てみてもその趣向が異なるのが一目瞭然。
19世紀や20世紀音楽の楽譜も何だか音符の並びが違うねぇ...という印象を受けるが、それくらいに、バロック期の楽譜もドイツとフランスの両者では随分図柄が異なる。よくカフェやアンティークショップのディスプレイなど、インテリア感覚で楽譜が使われていることがあるけれども、その感覚で両者を見比べれば、本当に別のものに見えると思う。
何が図柄を変えているのか...特に18世紀作品において、フランス作品には実音符以外の小さな音符が沢山あるのに対し、同方向性の作品におけるドイツ音楽の楽譜では実音符で真っ黒に埋め尽くされてしまっている。フランス作品にある実音符以外の「小さな音符」は装飾音を意味するものだが、ドイツの人は真面目だから、装飾も全部書き出したため、こんなにも真っ黒になったらしい...という意見がある。この説、では、フランス人は真面目ではないのか!? という失礼な説だと私は思うのだが、失礼にあたるかどうかは、さておき、実際のところ例えばJ.S.バッハの「イタリア協奏曲」の第2楽章など、音符の中から「装飾であるもの」を見つけ出さねばならない。

この「装飾をどう書くか」は、むろん「お国柄」の現れではあるが、言語にも結びついているのではないだろうか。私のような言語学に疎く、又、語学脳も持ち合わせてはいない人間にとって、母国語以外の言語は、耳にしても「言語」である以前に「音」としてしか聞こえないのだが、フランス語は発音の移動が小さく聞こえるのに対して、ドイツ語は短い音節の言葉も非常にはっきりと聞こえる(あくまでも私の意見。学問的にはどうかは分かりませんが...)。装飾もフランス作品では、小さな音符によってニュアンスを出そうとしているのに対し、ドイツ作品では装飾も明確に、彼らの中では自然発生的に実音の中で書こうとしたのではないだろうか?

あくまでも推測でしかないが、当時、音楽の先端はフランスにあったらしい。だからフランスの語法がドイツに入って生じたものは一体いかなるものなのかを考える必要があるのだが、そこを論ずる前に、もっと根本的なところも見るべきではないだろうか。
言語と音楽の関連は、テキストや修辞学の問題ではなく、「音」そのものにとって重要な事柄のように思う。あくまでも音楽芸術は文化の一つであり、文化は社会というベースが存在してこそ成立するものなのだから...。
(2007/08/16 Seiko NAKATA)


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