J.S.Bach, Handschrift

 J.S.バッハのガスパリーニの写譜が見つかったというニュースはBlogの更新意欲を刺激してくれる(こら)。あれこれニュースを見て、発見楽譜の写真画像を見てみて「そうかも そうかも」と思ふ(むろん自筆譜判定の確固たる能力は持ち合わせていない)。

 彼の音楽を演奏する奏者となってから、未発見の楽譜が見つかったことはこれまでにもありましたが、F.ガスパリーニの写譜をしていたことが何だか妙に気になっています。恐らく彼は他者の写譜を数えきれない程していただろうし、機械による複写技術がなかった当時、写譜は職業音楽家にとってごくごく当たり前の日常作業だったのだろうと思います。

 余談ですが、必要に迫られて、今年は先月迄にパート譜しかないファクシミリを書き写してスコアに書き直した曲が数曲(要するに写譜作業である)、そして、編成を変えて演奏するための移調譜の手書き作業が続いていました(これも実質写譜作業である)。「何が」とは明確に言葉で言うだけの文章力を持ち合わせていないのですが、手書きで写譜をする行為は得るもの多し。作業にとりかかる前に原譜を当然読み込んでいますし、作業中も同時進行で公演準備をしていますので(要するに私のこの作業は本番用の楽譜を書く、という作業なのである)、作業が完了した時にはむろん初見ではありませんが、この作業をするにあたっての「読み込み」が幸いするのか、「得るもの多し」の証拠に練習時間は大変少なくて済みます。又、実際の写譜作業中には、何度も弾き込みをした際の「気付き」の何倍もの「気付き」の瞬間があります。これにはいつも面白いものだなぁと思います。疲れる作業ですが、楽しい作業でもあります。この話をすると、「そんな面倒なことしないで浄書ソフトで清書すれば良いではないか」と必ず多くの方から言われるのですが、自分が使う楽譜を書き直す際は、必ず手書きするようにしています。LilyPondやFinale(はもう長らく使っていないが)での入力では、私の場合あまり気付きの瞬間に遭遇しないからです。まぁ、単に頑固者なだけでもありますが。

 余談が長くなりましたが、凡人の私でもそう感じるくらいですから、彼らにとって写譜は本当に重要な意味があったのだろうと思います。
 真っ先にそれが頭をよぎりましたので、ニュース見出しでヴァイマールの頃迄の写譜かしら...と思えば、1740年代の筆とのことなので少々驚いてしまいました。「バッハ先生、そんなことしておられるから、目を悪くするんですよ」と言いたくなりますが(卒中だけが目を悪くした原因だとは思っていませんので)、職業音楽家としては当然の作業だったのだろうと思います。
 ガスパリーニの音楽は、演奏する機会がこれ迄にありませんでしたので詳しくはありませんが、結構好きで聴くことは多いです。写譜していた事実は、奏者として何だか納得いくなぁと思います(言葉に出来るような根拠はないが)。プロテスタントがどうの...というお話も出ていますが、ルター派の教育を受けたらしいからおかしなことでもないのではないか、とも感じています(当時の宗教事情については明るくないですが)。話題にした割には感覚的な話ばかりで恐縮ですが。
 一番気になるのは、彼のこの写譜が残存出来た経緯かしら...。彼の新発見の作品よりも妙に気になっているのには、こういう部分を知りたい、とも思うからかもしれません。作曲家の周辺の人々の筆写譜によって残存しているおかげで演奏出来る作品も多いので、奏者にとっては重要視したい部分です。
 演奏にあたって音楽作品と向き合えば向き合う程、作曲家の作品が残存していることへの感謝の気持ちが生じて来るのが不思議です。