4/29の明石での2台チェンバロのコンサートにいらしてくださった皆様、ありがとうございました。
殆どの方が遠路遥々いらしてくださっていました。ありがとうございました。

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これは前日リハ直前の写真。この位置でまぁいいかー、と2台のチェンバロをセッティングしましたが、音を出してみると、私には気に喰わない楽器位置でした。で、即、本番の時の楽器位置に変更。次の本番直前の調律中の写真から、楽器位置をご想像ください(笑)

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[ 以下、長くなりますので、細かい話は要らない、という方はスルーしてください。]

 さて、チェンバロは1音、ピンッ! と鳴らすだけでも、多種多様な方法がある。1音だけでも表現の方法は本当に沢山ある。チェンバロに限らず、他のどんな楽器においてもそうだと思う。鍵盤楽器は一度に2音以上を鳴らすことが出来るけれども、1音だけで表現する以上に可能性は広がる。その表現の可能性の時間軸の広がりを含めたものが演奏なのだけれども、チェンバロが2台並べば、その可能性というのは倍になる筈なのです。否、様々な要素が絡み合えば、倍以上になるかもしれない。つまり、ただ2台の楽器を並べて鳴らせばいいという訳ではないと私は思っています。可能性を探るのもアンサンブルの一つの方法だし、なかなか条件的に実行に移せない形態のアンサンブルを行なう上では、その実験模索も義務でもある、と考えています。
 演奏において、奏者は様々なことにエネルギーを使います。演奏クォリティーに必要なエネルギー、演奏で何かを伝えようと思えば思うほど「伝えるためのエネルギー」も沢山必要になる。楽器と対話するエネルギー、そして空間に対するエネルギー(広い・狭いの問題ではなく、空間と対話するエネルギーが必要である)。アンサンブルなら、共に演奏するメンバーと音楽で対話するエネルギー。そして客席と対話するエネルギー... など、様々なエネルギーが必要となる。どの方向にも100%のエネルギーが必要で、それでいて初めて演奏会が完成すると思っている。
 コンサートとは、決して奏者の為にあるものではない。
 むろん奏者によって、演奏に臨むそのスタイルは様々だし、色々な考え方があってもよい。だが、聴き手がいてこそ演奏は成立するのであって、物理的に鳴っていれば良いというものではない。
 まだエネルギーを向けるべきところに気付いていない その要素はあるかもしれないが、私は少なくとも上記のところにエネルギーを注ぎながら、演奏していきたいと思っている。